やすらぎをくれたね







ひとには闇がある。
いつもほがらかに笑っているひとにも、いつも悲しみにくれている人にも。
ただ、それを悟らせようと思うか思うまいか。
おもてへ出そうとするかせぬか。
それを押しとどめるちからがあるかないか。
理不尽に襲いくる不幸や迷いに、立ち向かう精神がそなわっているか否か。
そんな違いがあるだけ。

笑っていたって楽しんでいたって無表情だって、どんなひとだって闇を抱えている。
それが、ひと。





*





ときおり、ひどく叫びだしたくなる夜がある。
ただ無性にこころのまま、泣き叫んでみたい日がひたひたとせまる夜がある。
けれどそうせぬのは、己の自尊心がおしとどめているだけのこと。
涙を流すなど男がすることだと己が思わず、叫びだすなど狂人がなすことであると己が思っている。

じっとたえればいつか、すぎさってゆくもの。
衝動を抑える術を知っているだけ。

叫びだすのが子供というわけじゃない。
たえるのが大人というわけでもない。
それでも泣きさけぶことをせぬのが、他の誰でもない己というもの。
それが己という殻。

「喜助さん。」

すえた血のにおいが、やわらかな声で霧散する。
あの兄弟たちが見捨てぬ理由のひとつは、これだと思うのだ。
そしてまた、無垢で、打算のない、ただ相手を想っているだけのひとみ。

「おはるちゃんか。どうかしたかい?」

殻をまとったいつもの自分は、普段であれば意識はしないけれど、こんな夜には演じなければはがれてしまう。
そんなことを知るわけもないむすめは、ただきょとりとひとみをまたたいて、そっと喜助の前で手をひらいた。

「これ、千富さんにもらったんです。背中の傷に効くと思いますから。」

ちいさなしろい手のひらはうつくしいわけじゃない。
すこし欠けたつめも、かさついたゆびも、ふしだった関節も、このむすめの苦労のあかし。
その苦しさなど微塵もみせぬのが、浅木はるというむすめ。

こんな手をもつ彼女を、罵って振り払う兄弟もいたようだけれど、それすらも懐柔するほどの奇妙な力がこのむすめにはある。
ただ遠くからながめてそう判断した己にまでこの力が及ぶとは思ってもみなかったけれど、思いおこせばあの出会いからしてなにか引き寄せられるものがあったのかもしれない。

「ありがとな。」

そうつぶやいた声の低さに自分で驚く。
まとった殻など意味もなく、やってしまったと思うが早いか。

「喜助さん、やっぱり、体調が悪いんじゃ…。」
「…うん? まぁ、な。ちょっとばかり。」

どうかしたのと聞かれれば何でもないといえるけれど。
取り繕うにも根気がいるいまの己は、きっとこんなちいさなむすめを頼りにしようとしている。
なんとなさけないことだろうか。

情報屋の仕事はなかなかに厳しい。
体力という理由ではなく、この社会の闇をさぐるそれゆえのこと。
知りたくもないことをよく知らねばならず、ひとのこころのやみがうきぼりになるたびに、仕事としては金になる情報をえたと思えど、ひととしては気分がしずむ日だってある。
依頼主以外には口外はできぬがゆえにこのこころに隠すけれど、それでも己がひとだからこそかかえきれぬときもある。

「つらいのですか。」

見透かしたような言葉だった。
きっと見透かしたわけではないだろうといままでのはるを知る喜助はそう思うけれど、問いかけるのではなく断定したことに驚く。
手元に落としていた視線を上げれば、ただ案じただけの意味もない瞳が己を見ていた。
その打算も媚びもふくまぬ意味もないおもいやりが、こんな夜に喜助が欲しいとおもうものだった。

「おはるちゃんが、いっぱいいればいいのになぁ。」
「え?」

世の中が、このようなきれいなものばかりであればよいのに。
無垢で無害で意味もない、そのすばらしきこと。

問いにはこたえず、喜助は笑った。
意味が分からずくびをかしげたはるに、薬をかえす。
なぜ?と問うひとみにほほえんで、喜助は足元においたかばんを肩へひっかけた。
とん、と背にあたったそれが、傷をおった痛みを思い出させる。

「喜助さん!」
「おはるちゃん、今度隅田川で花火やるって知ってるかい?」
「はぐらかさないでください!」
「ははっ…、そのころにまた来るから。」
「だから、はぐらかさないでって言って…!」
「おはるちゃんにいいひとがいなかったらこっそり連れてってやるよ。な?」
「………。」
「な?」

わなわなふるえるこぶしを振りかざすと思ったら、やおら胸倉を掴まれて胸元にちいさなものを押しこまれた。
小さすぎて服のなかを滑り落ち、腹で止まったそれを手で押さえて、そのちいさなものがついさっき返した薬だと分かる。

「背中の傷が治っていなかったら行きません。」
「おー、そーきたか。」
「お仕事とはいえ、あまり無理はしないでください。」
「いやー無理するのが仕事っていう」
「しないでください!」
「…はい。」

他人のためにかっかと怒ってむきになるむすめを見ていると、己の矜持などどこへ行ったのか分からなくなる。
肯定の返事をとりつけて、さも“それでよろしい”といわんばかりにうなづいたはるに、喜助はこころから笑った。
いつわりでもなく、殻もかぶらぬ、ただのひととして。










≪やすらぎをくれたね≫


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