嘆かわしいほど愚かしく、恐ろしいほどきれいに、それだけを求めていた







のばした指がふれることはなかった。
抱きしめてほしいとは言えなかった。
できることなら、その身体のすべてで、こころもなにもかも奪いさってほしいとも。
もうその背をみつめるだけでは、埋められないすきまなのだと。

うごけぬからだとはうらはらに、こころだけは走りつづけて。
ひきちぎられる痛みは、いずれふたりをひきはなす。
けれどいまここを離れるという選択肢はなく、ただ時を待つばかり。

こんなつらさがあるとは、知らなかった。
ただ焦がれただけ。
ただそれが自然で、必然で。
それが恋というものでしょう?





*





このさといひとは、それだけできっとわかってしまう。
そう思うほど、はるにはなにひとつできなかった。

貴様はすぐに顔にでると、わかりやすすぎる自分を、よく知られてしまったけれど。
本気になれば、おさないむすめも、おんなになれる。
そんなことは、知りたくもなかった。

普段通りにせねばならぬとおもえばおもうほど、日常だったこの場所が、あのひとのかたわらというその距離が、それをゆるしてもらったことが、どれほどめぐまれていて、なににも変えがきかないものだと思い知った。
耐えねばならぬとおもえばおもうほど、走る気持ちはなぜなのか。
留めよと己に命じても、思うままにならぬはこの身だけではなくもはや心までとは。
いったいどれほど奪いつくされてしまうのだろう。
すべてというならばすべていま、いっそ死ぬまで奪ってくれればいい。

あのひとが使う車の音が聞こえる。
あのひとが気に入っていつも使うその車の音は、自覚がないころからやけに耳についた。
それはもはや恋だった。
そうとは、知らなかっただけ。

兄弟のどれも違う音だというのに、このひとつだけをおぼえるとはなんと滑稽なことか。
首がしまり息ができぬ身体を引きずって、玄関先へとたどりつけば、すこしつかれた顔をして、それでも曇りのないひとみではるを見つめるひとがいる。
おかえりなさいませ、とつむぐこのくちびるは、いったいあと何度おなじこと言えるだろうか。
けれど、普段と変わらぬ己でいなければならぬ。
それが、いまの、この方のためとは思わない。
けれど、これからの、この方のためと思えば、耐えねばならぬ。

「はる。あとで部屋に茶を。」
「畏まりました。」

日常は終わる。
あといくばくかのときを経たら、かならず。
それが宮ノ杜というもの。
それが、このかたの未来のため。
このかたがこころの底から願った未来を叶える、そのため。

だから。
耐えよ、はる。
泣くな。強くなれ。
己に命じるそれをもっともっと強く願えば、この涙はとまるものなの?

きっとこのかたはゆるさない。
國を想うこのかたの信念を利用した父を。
それを成すちからをあたえたこの宮ノ杜を。
そのこころを裏切るわたしを。
そして、気がつかずにいた自分を。

離れると決めたのは己なのに、どうか傷つかないでほしいと思う。
もうこうするしかないのに、どうか宮ノ杜も、父も、信念も、自身も、なにもかもうらまないでいてほしいと思う。
しあわせなままに、どうかいきていてほしい。
たとえそのとなりにわたしがいなくても。



あたらしき門出とともに、このかたは宮ノ杜家二代目当主となられる。
そのとなりにたって遜色ない、しかるべき妻をむかえればよい。
このかたのかたわらは、己では務まらぬ。
もう何年も宮ノ杜の当主を務めたあの方の父がそういうのだから、きっとそう。

こころはいつかうつりゆくもの。
時のながれは想像がつかぬほど残酷だろうから、きっとだいじょうぶ。
このかたは、かけがえのない、いまのこころ をはるにくださった。
ほんとうはもらえるはずのないしあわせを、与えてくださった。
いつか失われるこころをかなしいと思うけれど、自分はこのかたの人生に、つめあとを残したいわけじゃない。

こころはいつかうつりゆくもの。
言いきかせていれば、このこころもいつか、消え去ってくれるかもしれない。
いつか、分不相応でない、この身にふさわしいひとと出会って、いきてゆくの。
そう想像する未来の、なんとむごたらしいことか。

「はる。」
「はい。」
「やはり分かっておらぬな。」
「え?」
「茶をふたり分もってこいと言ったのだ。たがえるなよ。」

このひとといきてゆきたい。
あいしている といってくれたこのひとと。
ふたりでいることを望んでくれるこのひとと。

あと何度、迎えることができるだろう。
あと何度、この声に はる と呼んでもらえるの。
どうか気がついて。
先を歩く背を見つめて、あなたを裏切るおんながいることに。
どうか気がつかないで。
先を歩く背を見つめて、なみだを堪えられぬおんながいることに。

時よ止まれ。
どうか ――― 今。










≪嘆かわしいほど愚かしく、恐ろしいほどきれいに、それだけを求めていた≫


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