そしてもう一度、あいしてると言って







勇は耐えきれず宙にういた吐息ごと喰らいついた。
目を閉じろと命じたすぐあと、我慢するつもりもない獰猛さで。

あの日駆け去った身体は今この腕の中にあり、涙がにじんでいたそのひとみがただ真摯に見つめている。
それははるからの絶対の信頼であり、だからこそ再びひらいたときにそのひとみに涙を浮かべさせたいと思う。
はるや己が思う苦しみを流す涙として。また己を想う涙として。己が与える悦びとして。

だからこそ勇は抑えなかった。
ものなれぬむすめであることはすでに理解していたけれど、抑えるつもりはなかった。
はるを妻にすると決めたからこそ、勇とはるは対等でなくてはならない。
はるが勇を理解したいと言うならば、なおのこと、ありのままの己を教えてやる。
ただやわく抱きしめるだけではもの足りぬことを教えてやる。
唇が重なるだけではあきたらぬ己を教えてやる。
はるそのものに飢え、すでに乾いてことを教えてやる。

だからこそ、力の限り抱きしめて、息を奪い尽くすほどはるを味わい、今も離せずにいる。
はるは背が軋み、いきぐるしいだろうが我慢を強いて。
はるがくちにした あいしている は、生まれて三十余年いちども感じたことのないよろこびを勇に与えた。
その言葉にならぬ想いをそえて。





*





こつこつと戸をたたくその速度を覚えてしまうその前に、廊下を歩くくつおとを覚えてしまった。
早朝のまどろみの中でその足音を聞くたびに、ひらきそうになる瞳を必死に閉ざしているなんてことを毎日くりかえしているとは、当人であるはるが知ったらあきれることだろう。
これが他の使用人であったならば、戸をたたくころにはすでに立ち上がっているだろうことを思えば、正気を疑われるやもしれないとも思う。

だが、この足音ははるにまちがいない。
そのうちに、足音で今日のはるの体調すらわかる日が来そうな気がする。
そこまで考えて、勇はうすくひらいた目を閉じた。

「勇様、お時間です。」

はるは毎回戸の外で念のため戸をたたいたあと声をかけるが、勇が寝起きが悪いとでも思っているのか、すぐに扉を開けて中に入ってくる。
それでも傍近くまで近寄ってこないのは、使用人としてそう教育を受けたからなのだが、さらに無言が続くと、致し方ないというていで勇の手がとどかぬぎりぎりの位置までやってくるのだ。
よくわかっている、と思う。

「勇様、朝です。勇様、そろそろ」
「……お前はいつになったら手を触れておこすということを覚えるのだろうな。」
「………、勇様。」

たしなめるような声がして、勇は目を開いた。
案の定剣呑な視線が自分を見つめていたが、失念しているのははるのほうだと思う。
この位置がぎりぎり勇の間合いの外だとはるは認識しているようだが、残念ながらはるの反射神経では本気で手をだした勇に敵うはずもない。
まさかこんなことで軍人が本気を出すとは思ってもいないのかもしれないが、そう思っていたとしてもその認識自体が間違っているのだ。

「はる。」
「え?」

勇の手に、はるの手首は細すぎてにぎってもあまるから、一気に二の腕まで手を伸ばして引き倒す。
え、と言ったまま茫然とベッドに乗り上げたはるは、自分のおかれた状況を認識するためにきょろきょろと視線をさまよわせた。

「え!」
「はる。」
「いいいい勇様!?な、なにを…!」
「なに、とは?」

ひきたおした上におおいかぶさったのだから、はるとしてはありえない角度で勇を見上げることになる。
ひとをこんな角度で見上げたことはないだろうということは勇にも想像がついたが、やめてやるつもりは毛頭ない。
あわてふためく姿が見たいのだから、当然だった。

「あ、朝からこんなことをしないでください!」
「まだなにもしておらん。」

夜ならよいのかといういじわるを、かろうじて押しとどめたのはせめてもの思いやり。
はるは困惑したまま腕をのばして胸を押しかえそうとしているようだが、かなうはずもない。

「ど、どいて、ください…?」
「はる。」
「は、はい?」
「昨日のことは覚えていような?」
「………。」

どうやら夜のうちに昨日車中で気絶寸前までくちびるを奪った出来事は、宇宙のかなたへ葬ったらしい。
どうりで今朝は普段通りの顔でやってきたはずだと思ったが、それではつまらない。
あわてふためく姿がみたいのだ。
その様子が想像できるからこそ。

「…っ、どうして思い出させるんですか!?」
「まあ、なかったことにしてもかまわぬが。今から同じことをするからな。」
「…!…!…むむむりです!」
「むりではない。」
「仕事ができません!」
「ならば今日はひがないちにち、ずっとここにおればよかろうが。」

思わぬ提案に疑問符を飛ばしたはるは、乏しい知識を総動員して、勇が暗にこめた言葉をおぼろげながら把握した。
そうするともうこれ以上赤くはならぬだろうと思った顔は、さらに火がふくのだから、まったく見ていて飽きぬむすめだと思う。

「仕事!できます!」
「そうか、残念だな。」

挙手をするようにぱっと意見をとり替えたはるに、勇はこみ上げる笑いをたえきれずこぼすと、 その笑い声にむっとした顔をしたところを見るに、昨夜はそうとうな葛藤があったらしい。

「笑い事じゃ…ありません…。」
「まぁ多少、手加減はするとしよう。」
「たしょう…。」
「不満か?ならば…」
「いいえ!いいえ!多少でお願いいたします!!で、でもできればあの…ま、まって、あの、」

勇は仕事以外では、そう忍耐強いほうではない。
好いたおんなを下において、そう長々と話に付き合ってやれるほどおおらかな性格をしていないし、なにも感じぬわけでもなければ、不能でもない。
ああだこうだとうるさいくちびるには飽きたので、もういっそずっと甘い声でももらしていればいいのにと思いながらそれをふさげば、至近距離でかちあった黒い瞳がぎゅっとまぶたに隠された。
はるはもはや襲いくるさまざまな未知なることを受けとめるだけで精一杯だろうから、 そのひそめられた眉に劣情をおぼえるなどということは夢にも思わぬだろうし、 それは胸元でにぎりしめられたちいさな手にも、いきぐるしさを伝えるようにすりあわされるひざにも、角度がかわるその合間におぼれたようにこぼれる吐息にもおよぶことなど、知りもしないだろう。

かくいう勇とてそう冷静なわけでもない。
ただ、はるの、ひとつひとつのしぐさがひどく気になって、そのすべてが勇をひきつけるだけだ。
どんなおんなにも感じたことのない引力が、はるにだけ現われる。
そんな“特別”さえ、はるには分からないだろう。



勇がおんなをどうにかしたいと思ったことすらはじめてだと知るのは勇だけだ。
よろこばせたいと思うのも、わらわせたいと思うのも、泣かせたいと思うのも、たったひとりのおんなに持つ感情とは知らなかった。
そんなうれしくもやっかいなものを知らしめたのだから、責任は取ってもらわなくてはならない。

もはや勇の日常ははるがなくてはまわらなくなってしまった。
息を切らして、手も足も服もぼろぼろになって、髪だってほこりまみれで駆けて戻ってきたあの日。
その姿をうつくしいと思った、いとおしいと思った、世界のどこを探したってこんなおんなと出会うことは、もうない。

宮ノ杜勇は宮ノ杜家の次男で、帝國陸軍大佐で、家だって金だって仕事だって、そこらの男に引けは取らないけれど、勇というただのおとこは別段真摯ではないし、思いやりにあふれるわけではないし、ひとを愛することに長けているわけでもない。
けれど、できうるかぎりの精一杯の愛をおくるから。
不器用でも無様でも不慣れな言葉でも、からだのなかへ吹きこんでゆくから。

はるのすべてを受けとめられる男でありたい。
だから、はるも受けとめていて欲しい。
国のために命すら惜しまぬ自分も、こころのままにわがままに振舞う子供のような自分も、
はるを愛する自分も、そのすべてを。










≪そしてもう一度、あいしてると言って≫


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