俺を虜にした責任は取って







背が伸びるにつれて、こころは冷えてゆくもの。また、冴えてゆくもの。
兄弟が六人。その次男。悪くはない位置づけだと考えた。
何について悪くはないのかと言えば、己が当主となるその過程において悪くない条件だったということ。

己が生まれ落ちた時にはすでに正がいた。
彼はとかく優秀であり、優秀であらねばならず、怜悧な優秀さが売りだった。
その後次々と妻を変え続けた父は、ふたりのあとに四人の子をもうけ、 それが何のためにそろえた材料なのか、解するに時間はかからなかった。
雅を得てからは以降妻を迎えることはなくなった父は、宮ノ杜のための布石をそろえ終えたということ。
すなわち敵はそろったということ。
見わたせば様々な性質をもった息子がうまれ、 己が齢三十を超えるころには、それが顕著に表れた。

その時を待っていたように、火蓋は切って落とされる。
己が父の、手によって。





*





宮ノ杜というものをいきぐるしい枷と感じているような弟たちをしりめに、 もはやこれが己の役目と割りきり、誇りすら感じる勇にとって、宮ノ杜の当主となるその場に名乗りを上げることは必然だった。
そのためにうるものは得、排するものは切って捨てたはずだった。
これもまたうるべきものだったからこそ、力づくで得たのだけれど、何か己が思ったことと、差異があるような気がしてならない。

「俺はなぜあのような…。」

自室でひとりごちても返る言葉がないのは、このほど勇の専属使用人となったはるが、 使用人であるにもかかわらず、この場に姿を見せないからに他ならない。

「原因を作ったのはそもそも…。」

おのれか、はるか。
いやどちらも原因の一端を担っているだろう。

何かねがいをひとつかなえてやろうという、勇にすればおもいやりのつもりの行動で、 よもや普通にしてほしいなどというねがいが返るとは想像だにしていたなかったのだ。
だがそんなねがいでも、他ならぬはるがそう願ったのだ。
なればこそ、出来うるかぎりこたえてやろうと思ったことは悪いことではないはず。
少々その方法をたがえた気はしたが、後の祭りとはまさにこの事だ。

「どちらにしても、あのように怒ることはなかろう…。」

宮ノ杜家次男、帝國陸軍大佐の宮ノ杜勇が、くちづけをしたのだ。
どこぞの芸者ではなく、己の専属とはいえ、使用人と。
勇にとっては己がしでかしたことにもかかわらず、青天の霹靂というか、もはや天変地異の前触れというか、 そんな心境だというのに、当のはるは機嫌を損ねた。それはもう、すばらしく損ねた。

「………理解しかねる。」

理解しかねるのは、はるとおのれだ。
あの時はるははじめてだと言ったから、少々申し訳…ないことをした…、かもしれない、とは思っている。
だがあれはもう父の専属ではなく、己の専属使用人。己のもの。
己のものをどうしようと、主人の勝手だと思う気持ちが勇の胸にはあって、実を言うとそれが大部分だったりする。
けれども不機嫌そうに、すこし悲しげにむっつりと黙りこむはるをみると、 少々こころをさいなまれるという、堂々巡りに陥っている。
そんな己が理解できない。

「…俺はしたいと思ったからこその行動だ。」

やましいことはない。まったくないわけではないが、なにより、したいと思ったのだ。
きまぐれだろうと衝動だろうとなんだろうと、あのときの勇の気持ちははるに向かったのだ。
その想いをまじえていたからこその行動だったが、あのように涙を浮かべて駆け去られては、 とんでもなく無体をはたらいたように思えて、さらにとんでもなく傷つけたようにも思えて、 加えて自分があまり良く思われていないのではないかと言う結論に達して、さしもの勇とてすこしきずついた。
きっかけがはるの珍妙なねがいだったとはいえ、あれは己が望んでの行動だったからこそ、すこしきずついたのだ。

ゆえに、すまぬ、とは言いだせない。
もっとも口が裂けても、女に謝るなど己の矜持が許さない。
だがはるにおいては、矜持がどのほどのものかと思わぬでもない。

「…埒もない…な。」

もう何刻もこうして座り込んで過去や今後に思案してもいても、結局堂々巡りだった。
本来であればちょっとばかり色よい雰囲気にすらなるはずなのに、どうしてこうなった。
まったく理解しかねる。

「………、はぁ…。」

溜息とともに目を閉じれば、驚愕に目を見開いたおおきなまっくろのひとみがまぶたに焼き付いている。
使用人をあれほど至近距離で見つめることなどないし、そもそもくちづけをしたのに目を閉じぬとはどういうことだと思うが、 存外くちびるはやわらかかったし、案外美味かったなというところまで思いいたって、勇ははっと己のくちびるに手を滑らせた。

「………?」

つくはずのものがついてはおらず、やや首をかしげる。
だがなぜつかぬのかに思いいたって、勇はなにもつかなかった手のひらで目を覆った。

つかぬが道理だ。
化粧っけもかけらもない、ただの使用人なのだ。

「紅などつくはずもない…。」

過去勇がくちびるをかわした女は、美しく着飾り男を楽しませるための商売女だった。
交わせば必ず己のくちびるに紅が移ったし、それを己でぬぐったこともあればぬぐわれたこともある。
正直、紅の味は好きでないが、交わす女がつけているからしようのないこと。

此度もついたものと思った。
だからこそぬぐったその指先には、しかしいっぺんの赤も見られなかった。

「………、馬鹿者は俺か。」

あれは商売女ではない。
無垢で無知で使えぬ使用人、くちづけすらはじめてのおんなだった。
その、ものなれぬおんなに同意も得ず無体を強いた。
正真正銘の馬鹿者だ。

「だが、したいと思ったのだがな…。」

悪いことをしたという自覚はした。
しかし謝る方法はまったく見いだせない。
ただ、すまぬとは、己にとってはきっかけがなくていえぬひとことだった。

「…トキを頼るか。」

あれもおんなゆえ、そのあたりのことは分かろう。

そうと決まれば勇の行動は早かった。
翌朝の早朝とも呼べる時刻に家へ押しかける旨を、トキの屋敷に連絡すべく立ち上がる。
電話機へ向かうため部屋を出れば、勇の視界のはしに黒い影が横切って、ひとこともなく逃げ去った。
けれど、不機嫌そうに、それでもむっつりとしたはるの顔にすこしの赤がさしていることを見逃すほど、勇の動体視力は馬鹿ではない。

はると交わしたくちづけは、紅の味などしなかった。
この宮ノ杜勇に、紅の味がせぬくちびるをはじめて教えたのがよもや使用人とは。

「だが…、はるの味、か。 …悪くない。」

まだその内を味わったことはないけれど、それもまた。

ふと釣り上ったくちびるに手を当てて、獰猛なひとみがきらめく。
若くして帝國陸軍大佐まで登った宮ノ杜家次男は、なにものをも逃しはしない。










≪俺を虜にした責任は取って≫


←BACK