その一呼吸すらも飲み干して、







執務室へ向かう道を進むサナトの、先に見える曲がりかど。
そのむこう側から楽しそうにわらう声が聞こえてきた。聞きまちがうこともない。すぐにアキの声と知れる。
サナトは回廊にたちどまり、そっと眉をひそめた。

二千年に渡る戦を終え、随分とこの国もぬるくなった。
翼を失ったヤスナは今、国も街も人も政府も軍も、そしてまた親衛隊も変わりゆく流れに乗っている。
その中に変わらぬものがあるとするならば、かつての同志くらいなものであろうか。

アキはときおり、親衛隊たちの他愛もない話につかまっていることがあった。
自分とともにいるときは困惑した顔色をみせることが多いあのむすめは、今日も朗らかにわらっている。
楽しそうにわらうその声には、微塵もいつわりはなくて。

意識することなく気配を消して、サナトは壁へとすりよった。
聞こえてきたのは低く落ち着いたアクトの声。
それにアキのひそやかにわらう声が聞こえて、サナトのひそめた眉が解け、顔色は無へと変わった。





*




「アキ」

サナトは寝台に横たわったまま、退室しようとしていたアキを呼びとめた。

「今宵はこちらへ。」

その扉に手をかける前にと、手招くようにてのひらを伸ばし、服のすそをとらえる。
微かにひきよせたが、アキは顔も身体も固まらせたまま、ぴくりとも動かなかった。

「…サ、サナトさん…?え、あの、え…、それは」
「アキ」

さえぎれば、アキはやっとひとみにとまどいの色を見せ、そわそわと手をすりあわせた。

そのとまどいは分からないでもなかった。こんなことを言うのははじめてだった。
つめたい声になっている自覚はある。みすみす逃がすつもりはないという意思のあらわれ。
こころに暗く立ち昇る雲がそう告げる。

「…サ、サナトさん…、あの。なにか、わたし、また失礼なことをしましたか…?
 今日…なんだか、あの、…怒っていますよね…?」

今朝からずっと、こわい顔をしているとは思う。
無表情のその裏にひそむものがあることを、彼女は見抜く。そういうひとだった。
最初はいぶかしむように、次はさぐるように、折々顔色をうかがっていたのに気づいてはいたけれど。

「そなたが、わたしの胸におさまれば」

話をしよう。
今日一日、彼女が理由を探しつづけても見当たらなかったその訳を。

「いやか?」

サナトは辛抱づよくじっと待った。
そうしてそろりと踏み出した足をみつけて、アキの手をとった。





寝台によこたわり抱き寄せて、結ばれた髪紐をはずしてゆく。
彼女に触れるどこからも、ぴりぴりとした緊張がつたわって。サナトは自分を棚に上げすこしかわいそうと思うと同時に、サナトの言葉をじっと待つところがかわいらしいと思った。
しようがないむすめ。

「アキ。そなた、アクトと仲がよいな。」
「…え…、いえそんな、」
「そんな?」

問いただす口調になってしまうのはゆるしてほしい。

「そんな…ことは…」
「今朝はとても楽しそうであった。」

いじわるい言い方になるのもゆるしてほしい。

「…サナトさん、」
「アクトをなんと呼んでいる?」
「……アクトさん、と。呼んでます。」
「ふん?そうだったか?」

髪をほどき終わり、そっと撫ぜて髪へくちづける。
とどめるように胸元へ添えられていたアキの手に、きしりと力がこもった。

「わたしは今朝、アクト、と呼んでいるのを聞いたが。」
「そっ!!」
「それにアキは、ヒノカも呼び捨てているな。いつのまにそのように親しくなった?」

困り果てたように静止したアキのうすく開いたくちびるに指をすべらせる。
はじめてふれたあの日から。育ついとおしさと同時に、たちこめる暗いかげ。

じっとアキのひとみをのぞきこんで、とまどう意識をひきよせた。

「わたしは、嫉妬深い男だ。」
「サナトさん」
「アキが思うより、ずっと。」

思わぬことを聞いたという目が気に入らなくて、くちびるをふさぐ。
あらがうことはないが、いまだ胸に添えられたままのかすかに押し返そうとする手のひらが、首もとにまわるまでゆるしてはやらぬと思う。





いきぐるしそうに漏れでた吐息と、赤く染まった目元をさらしてようやく、アキの手がサナトの背にまわった。
目を閉じたままそれをみとめてやっと、サナトはそっとすきまをあける。

「…くるしいです。」
「それはあたりまえ、だろう。」
「あたりまえ…」

手加減してくれればすむのではないの?、というとがめるような沈黙が落ちて。
ぴくりとはねたサナトの眉に、アキは気づいたようだった。

「そなた、」
「ごめんなさい」
「すばやい謝罪と、わたしの顔色をよみとる力はみとめるが。それとこれとは話が別だ。」

顎をとらえたその感触と、サナトから漏れでる気配を察して、アキはきゅっと口を閉じた。

「わたしは言ったはずだ。」

はばむように閉じられたくちびるを指先でこじあけて。

「そなたを、わたしのものにする、と。」

割り入れられたゆびに、アキの肩がゆれたのをみて、サナトはふと笑った。

「どういうことかわからぬようなら、教えて差し上げる。」

水音を立てて、サナトはアキに噛みついた。










≪その一呼吸すらも飲み干して、≫


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