なァ、呼んでくれよ。







まぶたを閉じた暗闇のなか、恋い焦がれた彼女の輪郭がうすくぼんやりと滲んでいく。
最初にぼやけたのは、足元だった。
闇が覆うように影を落とし、彼女の靴先がどのようなものだったかをよく思い出せない。
彼女の足運びは、その速度は、どれくらいだっただろうか。
どれほど長く考えても、その答えはでなかった。

次に消え去ったのは彼女の手だった。
一緒に街を歩いて初めて手を握った日、その小ささに驚いた記憶はあるのだけれど。
いったいどれくらい小さかったのだろうか。
これも、答えが出なかった。

感触も、ぬくもりも、とうに失った。
誠実にじっと見つめてくる蒼い瞳も、笑ったときのくちもとも、怒りをあらわにしたときの眉間も、抱きよせたときの肩の薄さも、すべてが滲んでゆく。
ただ覚えていられたのは、見つめられた時の胸の高鳴りと、笑い合ったときの心地よさと、ぶつかりあったときの焦燥と、抱きよせたときの血のさざめき。

そして、たったひとつ。
彼女だけが持つ魔法の言葉。





*





ニコラスは闇に目をはしらせた。
その視界がにじんでいることに顔を顰める。
冷えた手のひらを頬に滑らせると微かに濡れた感触があって、ニコラスはベッドの上でうずくまった。

夢を見るのは嫌いだった。
死神が眠るというのもおかしな話だけれど、確かに身体は睡眠を欲して、ニコラスを暗闇に突き落とす。
ニコラスは夢の中にいるあいだは、ずっと目を凝らしていた。
笑う彼女の面影に、叫んだし、なじったし、すがりついたし、そして何度目かもわからないほど幻影にすら恋をする。
あの別れの日から、ずっと。もう何年経ったのかすら、曖昧なほどに。

「………、アメリア…」

彼女を見つめるそのピントがずれ始めたと気がついたときから、ニコラスは目覚めると、必ず彼女を呼ぶようにしている。
そうしないといけないような気がした。
そうしないと、もうこころの多くを奪われた、なけなしで残っているこの恋さえ、誰かに奪い取られるような気がしていた。

薄められていく思い出にすがる、その術すら見あたらない日々。
夢に描くアメリアのかたちも、日を追うごとに、年を経るごとに削り取られた。
もはや覚えていることの方が少ないような気がするのに、それでも死した己の心臓を締めつけるはじめての恋は、今もこの胸にある。

アメリアの記憶と想いを刈りとったこと。
なにより正しかったのだと、今でも信じている。
迷いなくそうできる自分であったこと、それくらい大切に想えたことを、後悔などしていない。
後悔など、していない、つもりだ。けれど。

はじめての恋に、この結末は苦すぎた。
見つめあって、笑いあって、なじりあって、抱きしめあった。
胸に残るあのたかぶりが、こころを突き刺して。
痛くて痛くてしかたがない。

こんなことで涙を流す自分はひどく情けなく、そしてみじめだ。
けれど、涙を流すほど、まだ恋い焦がれていられることが、つぎはぎのニコラスのこころを繋ぎとめていた。





*





重たい食堂の扉を開けて、初めに目に映ったのは金色の髪。
自分と同じ輝きでもって、更に手入れされ磨かれたそれを手で払いのけながら振り返るのをニコラスはぼうっと見つめた。

「あらニコラス待ってたのよ! まったく、遅いお目覚めね」
「…ああ」
「んもう、いっつもそれなんだから」
「その話はいいから、珈琲くれ」

ニコールがあからさまに嫌そうな顔をしたが、結局聞き入れるあたりお人よしなのだ。
椅子に腰かけると、どん、と音がするくらいなみなみ注がれたカップを目の前に置かれ、非難の目で見上げれば、つんと顔をそむけられる。

「顎で使わないでよね!」
「どうせついでなんだから、ぐだぐだ言うなよ」

向かいの席に座りなおしたニコールがため息交じりに、手にしたカップにくゆる湯気を吹き飛ばした。
湯気と熱気と香水の香りが飛んできて、それを手で払ったのをむっとしたかと思いきや、ニコールの顔にニタニタと黒い笑顔がのぞいて、ニコラスは心持ち椅子を後ろに引く。
こういうときのニコールにいい思い出はない。

「あーら、そんな態度でいいと思ってるわけ?」
「何が」
「後悔するわよ?」
「しねーよ」
「するわよ、絶対!」
「なんだよ…めんどくせーなおまえは…。」
「めんどくさいって何よ!」

寝起きで機嫌が悪いのはニコールだって知っているはずなのに、ぎゃんぎゃんと怒鳴り散らされては徐々に腹が立ってくるというものだ。
売り言葉に買い言葉で応戦していると、食堂のドアが開いて、呆れた顔をした兄が顔を出した。

「おまえたち…うるさいぞ。いい加減にしろ。」
「グロリア!悪いのはニコラスよ!こいつったら私がどれくらい、」
「分かった、分かったから。ひとまず座れ。」

廊下にまで響き渡っていると渋い顔でなだめるグロリアに肩を押さえられて、座りなおしたニコールの顔は不満そうだ。
グロリアはやれやれと深いため息をついて、気をとりなおすように声をかけた。

「ニコール、喧嘩の前に肝心な話は終わったのか?」
「いいえ、これからよ。話そうと思ったのにニコラスが…って、もういいわ。」
「話?」
「そうよ、待ってたって言ったじゃない。」

ふん、と服と髪の乱れを直してニコールが顔を上げた。
陽気で時折人をからかう奴だけれど、ニコールがまっすぐ見つめてくるときは真剣に話をしているときのものだ。

「あんた、ちょっとアメリアちゃんに会いにいってらっしゃい。」
「………アメリア?」
「そうよ、アメリアちゃんよ。」
「アメリアって…、おまえ頭がおかしくなったのか? 会えるわけ、ないだろ…」
「会えるようにしてやったのよ!あたしが!」

無駄に自信満々だけれど、まったく信憑性がなくて、言っている意味が正確に捕らえられず、ニコラスは首をかしげた。
アメリアに会うなんて夢物語だ。理解できない。
困惑して兄を見つめたニコラスに、グロリアはそれが真実であると頷いた。

「正確には、ニコールがジャンに頼み込んで、夜までという条件の下であれば現世へ行くことを許可する、ということだ」
「ジャンが?夜まで?」
「そうだ。」
「アメリアに会える?」
「会える。」
「裏があるんじゃなくて?」
「その可能性はなくもないが…、この機会を逃せば二度あるかどうか分からんぞ。」

兄の低い声が、自分で決めろと言っている。
アメリアってあのアメリア?
彼女に会えると、そう言っているのか?

「あーもう、見てらんないのよねアンタ。うじうじうじうじ!ちっとも男らしくない!」
「……ニコール、」
「しょーがないから、ちょっと色仕掛けで迫ってやったの!ジャンなんてイチコロよ!せいぜい感謝なさい!」

威張る様にふんぞり返ったニコールには嫌みの欠片も見当たらなかった。
色仕掛けなんて、うそだ。
この世界はジャンがすべてだというのに、あの男に頼み込んでくれたのだ。

「何してんだ…、わざわざ危ない橋渡ってんじゃねーよ…」
「いーのよ」
「ほんと、おまえ、馬鹿だ…」
「馬鹿で結構よ。……あたしたち、友達、でしょ?」

いたわるような優しい声に、顔を上げることができなかった。
ありがとうと小さくかみしめた言葉は、届いただろうか。





*





ひと際冷たい風が枯れた枝を揺らしている。
教会へと続くこの道は、あの日二人で歩いた道。

同じ空気を吸って、同じ道を、同じ方向に、同じ速度で歩いた。
それがどれほどの奇跡だったのか、今になってようやくこころに沁みわたる。
死んでいる自分。生きている彼女。
出会うことさえないはずのふたりが出会って、しかも恋をするだなんて。

アメリアに、会いたい。

あれから、何年経っただろうか。
彼女はどう変わっただろう。
自分達のことなど、忘れてしまっただろうか。
けれどアメリアのことだから、覚えていてくれている、そう信じている。

好きでいてくれたことなど、覚えていなくて構わない。
ただ、アメリアに、会いたい。



凍てついた風が、懐かしい香りを運ぶ。
大きな瞳。変わらない仕草。手を伸ばす事を戸惑うほど清らかなひと。

さあ、アメリア。
魔法の言葉を、ささやいて。
恋い焦がれてやまない、その声で。





「ニコラス、さん…?」










≪なァ、呼んでくれよ。≫


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