この気持ちが本物でも偽物でも、叫びたいことが確かにあるんだ







死した身体には、こころが宿っているのだろうか。
鏡にすら映らぬ己の姿、影すら残せぬこの身がまやかしだというのならば、それではこの想いもいつわりではないだろうか。
死神という名でこの世に縛られて、ただ生きているものにあこがれを抱いているだけではないのか。
生きていたあのころでさえ持ち得なかった無垢なこころをさらけ出されるその度に、血に沈んだこの身を呪う。
抱き寄せるには血にまみれすぎた。
こころを明かすには時が遅すぎた。

己はしかばね。
生ける彼女には過ぎたものであるならば。





*





「ニコラス」

ときおり、兄の声には重力が加わっている。
もともと低音であるけれども、怒りの感情が付随すると、耳を通り抜け脳に到達した言葉がニコラスの身体を重たくする。
理解していると言えないところが埋まらない溝を強く主張するけれど、兄が言いたいことは分かっているつもりだ。
片手をあげてもういいのだと制すると、怒りに冴えた瞳に炎が宿った。

「分かってるよ、言い過ぎた。あとで、謝るから。」

今は少しほおっておいてくれ。
言葉にしなかったそれを正確にくみ取り、グロリアはそれ以上何も云わず部屋を立ち去った。
扉が閉まる音にすら責められているようで、後悔が押し寄せる身体があまりに重たくて、ニコラスはベッドにころがった。

きつく閉じた瞼に沁みついた、傷ついた顔が心臓を掴む。
後悔するのならば言わなければいいとわかっているのに、己の口から飛び出ていく言葉を押しとどめることができないのは、自分が子供だからだ。
また、アメリアを泣かせてしまった。
25歳にもなって己すら制御できないとは、情けないにもほどがある。
兄が怒るのも無理はない。



アメリアは、みんなのお気に入りだった。
それはニコラスがニコールであった時からで、ニコラスに戻った時にはもう口をはさむ隙間もなくそうだった。

マフィアのファミリー、しかも幹部が勢ぞろいしているというのに、 そういった状況に危機感を抱いているのはもはやヨシュアくらいなもので、 肝心のサルヴァトーレの連中はアメリアに骨抜きだ。
ボスの娘だからかと思いきや、どうやらみんなが個人的に気に入っているのだ。
ヨシュアはともかく、もともと兄やメディシスは堅気の、しかも女にはそう厳しい顔をしたりはしないし、 ヴィシャスやレオナルドは歳も近いからか無駄に距離が近く、からかいやすいからかあのルチアーノまでもがアメリアにかまいたがる。

アメリアはどうもほわほわしていて、危険分子にあふれているこの状況をちっとも把握しておらず、 世間知らずで、本当にあぶなっかしい。
ヨシュアのせいなのか、アメリアの本質なのかは分からないが、それが皆の警戒心をそいでいるのだろうけれど、ニコラスはその警戒心のなさにいら立つのだ。
なにも知らない顔が一番腹が立つというのに、深く考えずにニコラスに踏み込んでくる。
はじめは、だれがお前なんかにほだされるものかと思っていた。

けれど、今の自分はどうだろう。
ファミリーの中でひときわほだされている気がする。
挙句嫉妬するまでになるとは、どれだけ自分は意志が弱いのだ。

「なんでこんなことに…。」

まったく不可解だ。
どうしてこうなったのかニコラスでさえ分からない。
メディシスに言わせると、そんなものですよ、らしいけれど、こんな経験は今までしたことがない。
だって女なんてちょっとおだてて、甘い声で囁いて、あげく金でもちらつかせればどうにでもなるようなそんなのばっかだろ?
と言ってみたけれど、グロリアに言わせると、アメリアとその辺の女を同じに見ているニコラスがどうかしている、らしい。

ニコラスとアメリアの間には、ニコラスが苛立って一方的に怒鳴り散らし、気まずく謝る
というこんな最悪な流れしかないというのに、どうして自分がこんなに追い詰められているのか。
甘やかしたことなど一度もない。雰囲気作りをしたこともない。何かを買い与えてやったこともない。
なのに気付くと気まずい沈黙が漂って、それがいたたまれない甘ったれた空気に変わったり、 なぜか意味ありげに視線が絡み合う時がある。

「なんか…違うよな、いつもと」

ルチアーノに言わせると、そりゃ恋だね恋しかもマジ、らしいのだけれど、
これが恋だと言うのなら、まったくおそろしい。
今までの自分の経験は何だったのだろう。
アメリア相手ではまったく役立たずもいいところだ。

今日だってアメリアが無駄にヴィシャスと楽しそうに話しているのを見たくもないのに見てしまい、 ちょっと沸点が低くなっていたところを、なにもわかっていないアメリアが刺激するものだからまた一方的に怒鳴ったのだ。
しかもヴィシャスが割って入って、よりややこしくなった。
今頃アメリアをなだめすかしているのはあいつだ。
そう思うと立ち上がる気にすらならない。

「なんかもういやだな、これ…」

自分の事で自分を持て余すことはあったけれど、女関係でこんなことになったことは一度もない。
だってのめり込む方が馬鹿だろ? 本気になった方が負けだろ?
うまく渡り歩くには、適度な距離を保つのが肝要であるし、ニコラスが相手にする女もそれくらいわかっているから、 お互いに距離を測り合ってある程度まではうまくいくのだ。

「……、アメリア相手じゃ…な…。」

察しろというのが無理なのは理解している。
だが察してくれと思ってしまう。
まだ自分はガキだと自覚はしているけれど、心に浮かんだ気持ちを素直に口にできるほど子供ではない。
こころの扉は年々固く閉じていくというのに、しかも死神だなんて。死んだあとだなんて。なんて馬鹿なんだ。

「…あーあ…。ちくしょう…俺、本気なのか…?」

自分の心すら計りかねる。
どうして今そんな面倒なものにのめり込もうとしているのか。
なぜ出会ったのか。
自分は死んでいるのだ。
そう、死んでいるのだ。





*





「アメリア」

珈琲の香りが充満したキッチンで、カップを片手に振り返った瞳に涙のあとはなかった。
ただすこし、剣呑な色を見せるだけで。

「…さっきは、悪かったよ。機嫌が悪くて…つい…、悪い。」

蒼く透き通った瞳にじっと見つめられて、居心地の悪さをおぼえる。
うすい色素の頭が少し傾いて、しょうがないと言った顔でちいさなくちびるが開くまで、神の審判を待つ死人の心地だった。

「もういいですよ。ニコラスさん相手にいつまでも気にしてられません!」
「…悪い、な。」
「あ!ニコラスさんもコーヒー飲みますか?」
「ん? ああ。」

うなづいた自分に微笑んで、向けたその小さな背に触れたいと思うけれど、 かすかにうごいた指先を押しとどめるのは、自分が死人だからという理由からなのか。
それとも憶病なだけか。

男と二人きりだと言うのに警戒心の欠片もない無防備な背中をじっと見つめて、自分のこころを確かめたくなる。 触れてみれば分かるのではないか。
伸ばしてみようか。すこしだけ。
ほんの、すこしだけ。

「きゃっ…!」
「あ。わ、悪い…。」

そっと指をうすい肩に滑らせたら、とんでもなく大仰に反応があって、手を引っ込めてしまった。
振り返ったアメリアに、どうして、と無言で問われているような気がして、表面上はなんでもなかったように言いつくろう。

「髪、ついてたぞ」
「え? あ、ありがとうございます…。」
「おまえ反応よすぎ、こっちが驚くだろ」
「だ!だってびっくりしたんです!コーヒー入れるのに集中してたんですから!」

そんなことを両手を握りしめてしかも必死に訴えるものだから、つい笑ってしまって、 アメリアには多少馬鹿にした笑いに聞こえたのか、むっと口を引き結んでいるが白い頬がすこしずつ赤く染まっていく。

「………。」
「………。」

部屋にふたりっきり。沈黙。向かい合ったその目に映り込んだ自分が蒼い瞳の中で瞬いたのが見えた。
かつてのニコラスならば絶好の好機と捉えただろうけれど、相手はアメリアだった。
そう認識しただけで、血流が早まったのが分かる。
死人の身体に流れる血も正直なものだと思った。

「アメリア」
「?」
「あまり、無防備になるな」

彼女がこの言葉を認識できるかどうかは知らない。
反応が返る前に、ニコラスはアメリアの手に握られていたカップを受け取って踵を返した。
扉をすり抜けて、静かに閉めるその時にはもう分かっていた。

偽物だと思いたいだけだ。
この身体も、こころも、想いも、まぼろしであってほしいと思いたいだけだ。
向き合えば傷つく。少なくとも自分が大きな痛手を得るだろう。
あの瞬間、アメリアの瞳に映り込んだ自分を殴り倒したくなった。
自分はなんと弱くてどうしようもない男だろうか。
なんという情けない男だろう。
あのうつくしいこころを受け取ることがひどく恐ろしい。

けれど、予感がしている。
これ以上長く時を過ごせば、想いはさらに加速して。
覚悟も決まらない自分の手が、これ以上彼女を傷つけることがあってはならないのだ。





己はしかばね。
生ける彼女には過ぎたものであるならば。
走りだしてしまったこの想いが向かう先は、いったいどこに。










≪この気持ちが本物でも偽物でも、叫びたいことが確かにあるんだ≫


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